お父さん、気づいたね! 声を失くしたダウン症の息子から教わったこと

ダウン症・呼吸器機能障害・音声言語障害のある息子のお陰で、毎日を幸せに生きられるようになった学びと気づきを綴ります。

一刻を争う息子の命

息子が生まれてからの物語33話目。

前回の続き。

『息子の誕生』←ここからスタートしてます。

 

2001年6月、息子は5歳になった。

 

博多駅東支店勤務になり3年、

そろそろ転勤の時期だ。

 

次はどの支店になるだろう?

 

家も建てたし、

人事部もしばらくは息子のことも

配慮してくれるようだし、

遠い場所にはならないと予想していた。

 

そして、人事異動の通達に私の名前が。

 

宇美支店 田中 伸一

 

宇美支店までは、

自宅から電車1本で行ける支店だ。

期待通りの異動で、

今回の人事異動もありがたいと思った。

 

この頃から、

いくつかの会社から転職の誘いを受け始める。

 

上司や職場にも恵まれ、仕事は順調。

 

銀行の法人融資ビジネスモデルプロジェクトの

メンバーに選ばれ、一定の成果を出し、

頭取特別賞を受賞。

 

銀行員としても自信を持って仕事をしていた。

 

転職の誘いを受けても、

銀行を辞めることを考えることはなかった。

 

ただ、漠然と

銀行員以外の仕事もあるんだなぁ

という思いが私の頭にインプットされる。

 

仕事が順調なのはいいが、帰りは遅く、

平日、息子をお風呂に入れることは

ほとんどない。

 

息子もこの時期の3年間は、

体調もよく、入院することはなかった。

 

ただ、首の下の気管切開した場所に入れた

カニューレという短い管に痰が詰まったり、

何かのはずみでカニューレが抜けることがある。

 

すると息子も泣き(声はでないが)

一時的に気管孔(気管切開した場所の穴)が

閉じてしまう。

気道が塞がり呼吸困難になり

全身がみるみる青ざめてくる。

 

妻はパニックになりながらも、

外れたカニューレをなんとか気管孔に挿入し

対処する。

 

一刻を争うので、私や病院に連絡できない。

 

連絡できたとしても、

助けの人が駆けつけるまで、

窒息状態の息子の体はもたない。

 

私は仕事を終え、

息子の無事を知った後なので、

安心して聞けるが、

妻はその数分間は生きた心地がしなかった。

 

そういうことが何回かあり、

宇美支店に転勤した翌年、

気管切開後、初めて気管の手術をすることに。

 

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施設に通園する息子


 続く…。

 

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