べてるの家について書かれた本
『悩む力 べてるの家の人びと』を紹介しながら
私が息子と過ごす中での学びと気づきを書いた
シリーズ6つ目最終回の記事です。
(べてるの家は北海道にある精神障害を抱えた方のという共同体)
前回の続きです。
「自立できることが唯一の道?」←ここからスタートしています。
「俺、こまった。この人、俺の病気が治るように祈っている」
口をとがらせて、松本さんは向谷地さんにいった。
「治ったら困るんだよな。病気治ったら、前みたくがんばったらどうしよう」
前みたくがんばったら、自分のこの人生はなくなってしまう。かつてのかんばりの日々がいかに荒涼たる風景を生み出していたか、記憶は生々しい。かりそめにも病気が治るようにと祈るようなことはやめてほしいと、本気で思っている。それは病気に打ち勝とうとか克服しようとするのではなく、そうしたかくなさから離れて病気を自らの生き方のなかに折りこんでいこうとする「ソフトなかかわり」のあらわれなのかもしれない。
「病気が治ったら困る」
肉体的な病気は、ほぼすべての場合、
治った方がいいと思います。
ただ、ここでの病気は精神病。
それでも私も含めて多くの人は、
「治った方がいいと思う」と思うのですが、
べてるの家の人びとは、そうは思っていません。
息子には重度の知的障害があり、
治るということはありませんが、
私自身も、息子の知的障害がなくなればと
思うこともありません。
というか、
社会的に知的障害と診断されているだけで、
私自身は、障害というよりも
息子の個性の一部と思っているのです。
なので、それがなくなると
息子ではなくなります。
いわゆる知的障害があるからこそ、
(何度も書きますが、私自身は障害という感覚はありません)
私は息子から救われたように思っています。
つながっているという魂のやすらぎのような安心感がある。それは強くすぐれたものが勝ち残る社会のどこにも見出すことのできない感覚だった。上へ上へと目指す生き方のなかでは想像することもできない人間の暮らしのあり方だった。
ふり返ってみたとき、私が通りすぎてきた強いものの社会、べてるから見れば雲の上にあって繁栄し上昇しつづけているように見える社会、その学校や企業や地域は、思えばなんと希薄な人間関係しかもちえなかったことだろう。
息子は声もなく、
言葉や文字がわらないからこそ、
私の息子の気持ちを
わかろうとする気持ちが深まったし、
息子とは魂でつながっているような感覚を
感じることもあります。
何ができるとか、できないとか
そういう次元ではないところに
生きる価値を見出すことができるように
なったのも息子のお陰です。
人はパンのために生きるのではないというけれど、ではなんのために生きるのかといえば、こうした人間のつながりのために生きているのではないのだろうか。あるいは人はパンのみにて生くるにあらずというけれど、ではなにをよりどころにして生きているかといえば、つながりと、そのつながりを生みだす他者への思いというものによって生きているはずなのである。あるいは、そう思わせる生き方の深さというものがべてるの人びとには共有されている。そうした生き方の形が、深いやすらぎを生み出している。
深いやすらぎ、癒し。
息子といるといつもこの感覚を感じます。
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